樹々の自然遷移
我が家の裏山には、人が長く立ち入っていない場所があったりします。そこは、かつて柿畑だったところなのですが、近所の方や所有者の御子息から聞いた話から推測しても、おそらく20~30年は人が入っていないのではないかと思われます。今となっては、そこまで登っていくのは私、ただ独りだけなのですが、私にとってはとても特別な場所となっていたりします。お気に入りと表現するには不謹慎に感じてしまうほど、神聖な場所に思え、むやみやたらに近づかないようにもしています。そんな私のサンクチュアリに昨日、登ることにしました。
藪の奥にある、冬の陽光が明るく射しこむ場所。高く伸びた幹は富有柿の樹なのです。果樹園で見かける柿の樹形とは全く違っています。そして、その株元には自生のお茶の木が緑を輝かせて茂っています。果樹畑で見かける柿の樹は、生産性良く実を収穫するために枝を横に伸ばした樹形に仕立てられています。ここの富有柿の樹もそうだったのですが、長い間放置されたことで横に張った不要な枝を落とし、自然樹形に向かってなのかは分かりませんが、上部に枝を発達させているのです。
その中の1本を見てみます。
人の手によって栽培されていた時の名残りで、株元からは不自然に幹が分かれてしまっているのですが、その先から空に向かって伸びている枝々からは豊かな生命力を感じるのです。また、イノシシ除けのワイヤーメッシュの向こう側は、柿の樹が伐採されて藪化しているのですが、サンクチュアリの柿の樹の下は強い下草が蔓延ることなく、耐陰性のお茶の樹に覆われて清々しい風が通る空間となっています。
そんなサンクチュアリに立ちながら、かつて同じような感動を経験したことがあるのを思い出しました。約10年前、偶然知り合ったイタリア人と一緒に訪れた福岡自然農園の森です。言葉のあまり通じない旅仲間でしたが、福岡正信さんの自然農法に触れたいという気持ちを共有した者同士の愉快で真剣な伊予への旅でした。その時の写真です。
7月初旬の梅雨時期でした。この森も長く人が入ることなく、自然遷移の途中でした。中高木・低木・下草などがバランス良く息づいて、適度に明るく清々しい空間だったのを思い出します。
森の中には八角堂と呼ばれるこんな建物もあり、それが徐々に朽ちていく様子からも人が立ち入っていない時間の長さを感じることが出来ました。幸いなことに、この時は福岡正信さんの息子さんとお孫さんの御厚意で森に入らせていただくことが出来たのでした。あらためて感謝致します。あれから10年、今はどうなっているのでしょう・・・。
さて話は戻って、我がサンクチュアリの富有柿ですが、不要な枝を落とし、元気な幹・枝を伸ばすことが出来るのは、おそらく環境が適しているからだと思うのです。栽培品種である富有柿は強い植物ではないため、放置されてしまうと自力で新たな枝を伸ばすことが出来ず、朽ちていってしまう樹々の方が多いのではないかと思いますし、実際そういう樹をたくさん見かけます。
サンクチュアリを山の下側から見上げた写真です。山の斜面で水捌け良く、明るく風通しの良い環境が柿の樹を強くしてくれたのではないかと思っています。脇にある柚子の樹も5m程に背を伸ばしていました。写真の下側には無数の穴が掘られ凸凹になっているのがお分かりかと思いますが、これは全てイノシシが掘った跡です。造園技師の矢野智徳さんが実践されている大地の再生では、大地の環境改善を行う際に空気と水の通りを促すべく溝や穴を掘ることがあるですが、イノシシは適切な場所に穴を掘る名人とのことなのです。そういう意味では、このイノシシの穴掘りも自然遷移のひとつと云えるのかもしれません。私達の為すべきこととは、いったい何なのか、深く問われているように思えるのでした。
この富有柿もいずれ寿命を終え、倒木となり大地に還ることでしょう。そして、その後は、新たな別の植生に緩やかに遷移し、私達が手を出さない限り、このサンクチュアリは続いて行くのです。